は明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
勝三郎は尋《つい》で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。法諡《ほうし》を花菱院照誉東成信士《かりょういんしょうよとうせいしんし》という。東成はその諱《いみな》である。墓は浅草|蔵前《くらまえ》西福寺《さいふくじ》内|真行院《しんぎょういん》にある。原《たず》ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は世《よよ》喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋|坂本町《さかもとちょう》十八番地にあって名跡《みょうせき》を伝えている。いわゆる植木店《うえきだな》の家元《いえもと》である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に和吉《わきち》があり、和吉の後《のち》を初代勝五郎が襲《つ》ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を更《あらた》めずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字《おさなな》を小三郎《こさぶろう》といった。即ち勝久の師匠である。
二世勝三郎には子女|各《おのおの》一人《いちにん》があって、姉をふさといい、弟を金次郎《きん
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