筍の周囲の土は、予《あらかじ》め掘り起して、鬆《ゆる》めた後《のち》にまた掻《か》き寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易《たやす》く抜くことを得なかった。家苞《いえづと》には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数には洩《も》れなかった。
 前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相|慶寧《よしやす》、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸《かなまる》、小笠原家が豊千代丸《とよちよまる》、黒田家が少将|慶賛《よしすけ》、本多家が主膳正《しゅぜんのかみ》康穣《やすしげ》の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑《かちゅう》家世《かせい》の事に精《くわ》しくないから、もし誤謬《ごびゅう》があったら正してもらいたい。
 勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘《なびろ》めの大浚《おおざらい》を催した。浚場《さらいば》の間口《まぐち》の天幕は深川の五本松門弟|中《じゅう》、後幕《うしろまく》は魚河岸問屋《うおがしどいや》今和《いまわ》と緑町門弟中、水引《みずひき》は牧野家であった。その外家元門弟中よ
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