ちょう》九番地に住んでいて、家族は子婦《よめ》大槻《おおつき》氏よう、孫|女《むすめ》こうの二人《ふたり》であった。嗣子養真は父に先《さきだ》って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》の『倭名鈔箋註《わみょうしょうせんちゅう》』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館《しんこくしかん》において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
保は枳園の求《もとめ》に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、犬居《いぬい》に往《ゆ》き、掛塚《かけづか》から汽船|豊川丸《とよかわまる》に乗って帰京の途に就《つ》いた。そして航海中暴風に遭《あ》って、下田
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