七両十二人扶持|川崎丈助《かわさきじょうすけ》の女《むすめ》を迎えたが、これは四年二月に逸《いつ》という女《むすめ》を生んで、逸が三歳で夭折《ようせつ》した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納《い》れた室《しつ》は、下総国《しもうさのくに》佐倉《さくら》の城主|堀田《ほった》相模守《さがみのかみ》正順《まさより》の臣、岩田忠次《いわたちゅうじ》の妹|縫《ぬい》で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
 縫は享和二年に始めて須磨《すま》という女《むすめ》を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居《るすい》年寄《としより》佐野《さの》豊前守《ぶぜんのかみ》政親《まさちか》組|飯田四郎左衛門《いいだしろうざえもん》良清《よしきよ》に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後《のち》には文化八年|閏《じゅん》二月十四日に女《むすめ》が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺《かんのうじ》の墓に曇華《どんげ》水子《すいし》と刻して
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