あるのがこの女《むすめ》の法諡《ほうし》である。
允成《ただしげ》は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並《つきなみ》講釈の教官を兼ね、経学《けいがく》と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄《せいろく》の外に、寛政十二年から勤料《つとめりょう》五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中《なか》二年置いて文化十一年に一粒金丹《いちりゅうきんたん》を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月《まいげつ》百両以上の所得になったのである。
允成は表向《おもてむき》侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙《こうむ》ることが厚かったので、人の敢《あえ》て言わざる事をも言うようになっていて、数《しばしば》諫《いさ》めて数《しばしば》聴《き》かれた。寧親は文化元年五月連年|蝦夷地《えぞち》の防備に任じたという廉《かど》を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出《おんのりだし》がこれである。五年十二月には南部《なんぶ》家と共に永く東西蝦夷地を警衛
前へ
次へ
全446ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング