いた。師範学校に入ったのも、その業を卒《お》えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして為《な》したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞《そくぶん》し、頗《すこぶ》る福沢諭吉《ふくざわゆきち》に傾倒した。明治九年に国学者|阿波《あわ》の人某が、福沢の著《あらわ》す所の『学問のすゝめ』を駁《はく》して、書中の「日本《にっぽん》は※[#「くさかんむり/最」、第4水準2−86−82]爾《さいじ》たる小国である」の句を以て祖国を辱《はずかし》むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書《しゅしょ》して保に謝した。保はこれより福沢に識《し》られて、これに適従《てきじゅう》せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索《もと》めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区|松本町《まつもとちょう》十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月
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