『易《えき》』や『毛詩《もうし》』を講ずるのを聴《き》いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を蒙《こうむ》っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
 成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所|相生町《あいおいちょう》の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言《いげん》して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易《か》うるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八《せきしんぱち》の経営する所である。振八、初《はじめ》の名を仁寿《じんじゅ》という。下総国高岡の城主|井上《いのうえ》筑後守|正滝《まさたき》の家来鈴木|伯寿《はくじゅ》の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の末年《ばつねん》に尺氏を冒した。田辺太一《たなべたいち》に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎《にしきちじゅうろう》等を師とし、次で英米人に親炙《しんしゃ》し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。

   その九十二

 成善は四月に海保の伝経廬《でんけいろ》に入《い》り、五月に尺《せき》の共立学舎に入ったが、六月から更
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