大村には勝重の往《ゆ》く前に、源頼朝《みなもとのよりとも》時代から続いている渋江|公業《こうぎょう》の後裔《こうえい》がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無《ゆうむ》は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国|那須郡《なすごおり》大田原の城主たる宗家《そうか》ではなく、その支封《しほう》であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信《きよのぶ》、扶清《すけきよ》、友清《ともきよ》などの世であったはずである。大田原家は素《もと》一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清《びぜんのかみまさきよ》が主膳高清《しゅぜんたかきよ》に宗家を襲《つ》がせ、千石を割《さ》いて末家《ばつけ》を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今|手許《てもと》に末家の系譜がないから検することが出来ない。
辰盛は通称を他人《たひと》といって、後|小三郎《こさぶろう》と改め、また喜六《きろく》と改めた。道陸《どうりく》は剃髪《ていはつ》してからの称である。医を今大路《いまおおじ》侍従|道三《どうさん》玄淵《げんえん》に学び、元禄十
前へ
次へ
全446ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング