|北岡太淳《きたおかたいじゅん》、手塚元瑞《てづかげんずい》、今春碩《いまはるせき》らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村|春台《しゅんたい》、三上道春《みかみどうしゅん》、北岡|有格《ゆうかく》、小野圭庵《おのけいあん》の如きものがある。その他|小山内元洋《おさないげんよう》のように新《あらた》に召し抱えられたものもある。しかし江戸|定府《じょうふ》出身の少《わか》い医者がない。ちと医業の方をも出精《しゅっせい》してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽|承昭《つぐてる》に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦《たたかい》を大星場《おおほしば》に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍《かたわら》に侍した成善をして小野に代らしめた。此《かく》の如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下《じょうか》皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が闕《か》けていたと
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