のが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で芝《しば》神明町《しんめいちょう》の商船黌《しょうせんこう》と、芝《しば》新銭座《しんせんざ》の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。
その八十五
小野|富穀《ふこく》とその子|道悦《どうえつ》とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を費《ついや》し、三月十八日に弘前に著《つ》いた。渋江氏の弘前に入《い》るに先《さきだ》つこと二カ月足らずである。
矢島|優善《やすゆき》が隠居させられた時、跡を襲《つ》いだ周禎《しゅうてい》の一家《いっけ》も、この年に弘前へ徙《うつ》ったが、その江戸を発する時、三男|三蔵《さんぞう》は江戸に留《とど》まった。前に小田原《おだわら》へ往った長男|周碩《しゅうせき》と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者|奥通《おくどおり》に進み、その次男で嗣子にせられた周策《しゅうさく》もまた目見《めみえ》の後《のち》表医者を命ぜられた。
袖斎の姉須磨
前へ
次へ
全446ページ中322ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング