ょう》することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
 成善は経史《けいし》を兼松石居《かねまつせききょ》に学んだ。江戸で海保竹逕《かいほちくけい》の塾を辞して、弘前で石居の門を敲《たた》いたのである。石居は当時既に蟄居《ちっきょ》を免《ゆる》されていた。医学は江戸で多紀安琢《たきあんたく》の教《おしえ》を受けた後《のち》、弘前では別に人に師事せずにいた。
 戦争は既に所々《しょしょ》に起って、飛脚が日ごとに情報を齎《もたら》した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、新《あらた》に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医|小山内元洋《おさないげんよう》である。弘前ではこれより先藩学|稽古館《けいこかん》に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田|成卿《せいけい》の門人佐々木|元俊《げんしゅん》である。元洋もまた杉田門から出た人で、後|建《けん》と称して、明治十八年二月十四日に中佐《ちゅうさ》相当陸軍一等軍医|正《せい》を以て広島
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