歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸《さいわい》に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃《じ》を喪《うしな》ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考《せんこう》の平生《へいぜい》を聞くことを得たのである。
抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言《ゆいごん》によれば、経《けい》を海保漁村《かいほぎょそん》に、医を多紀安琢《たきあんたく》に、書を小島成斎《こじませいさい》に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語《らんご》を教えるが好《い》いといってある。抽斎は友人多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》などと同じように、頗《すこぶ》るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁《お》う世俗と趨舎《すうしゃ》を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次《いちかわこだんじ》の芸を「西洋」だといってある。これは褒《ほ》めたのではない。然《しか》るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言した
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