衣《へいい》を著《き》て塾を出《い》で、漁村に代って躋寿館に往《ゆ》き、間部家《まなべけ》に往き、南部家に往いた。勢《いきおい》此《かく》の如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路《ねりべいこうじ》の伝経廬は旧に依《よ》って繁栄した。
 多年渋江氏に寄食していた山内豊覚《やまのうちほうかく》の妾《しょう》牧《まき》は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。

   その七十八

 抽斎の姉|須磨《すま》が飯田良清《いいだよしきよ》に嫁して生んだ女《むすめ》二人《ふたり》の中で、長女|延《のぶ》は小舟町《こぶねちょう》の新井屋半七《あらいやはんしち》が妻となって死に、次女|路《みち》が残っていた。路は痘瘡《とうそう》のために貌《かたち》を傷《やぶ》られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗《すこぶ》る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男|直之助《なおのすけ》が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年|前《ぜん》の安政三年から、「武鑑
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