ていた。内に倹素を忍んで、外《ほか》に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って始《はじめ》て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻《しきり》に再び娶《めと》らんことを勧めたが、貞固は「五十を踰《こ》えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
 第八年は慶応二年である。海保漁村が九年|前《ぜん》に病に罹《かか》り、この年八月その再発に逢《あ》い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子|竹逕《ちくけい》の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故《なにゆえ》というに、晩年の漁村が弟子《ていし》のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉《ことごと》くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄《しわが》れているのに、竹逕は音吐《おんと》晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻《こうふん》態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻《ただ》に伝経廬《でんけいろ》におけるのみではなかった。竹逕は弊
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