帰った翌年である。平伯民《へいはくみん》は平井東堂だそうである。
美成、字は久卿《きゅうけい》、北峰《ほくほう》、好問堂《こうもんどう》等の号がある。通称は新兵衛《しんべえ》、後《のち》久作と改めた。下谷《したや》二長町《にちょうまち》に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町《いいだまち》の鍋島《なべしま》というものの邸内にいたそうである。黐木坂下《もちのきざかした》に鍋島|穎之助《えいのすけ》という五千石の寄合《よりあい》が住んでいたから、定めてその邸であろう。
美成の歿した時の齢《よわい》を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々《まちまち》になっていて、確《たしか》には定めがたい。
抽斎歿後の第六年は元治《げんじ》元年である。森枳園が躋寿館《せいじゅかん》の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫《すいざん》が十一歳で夭札《ようさつ》した。
比良野|貞固《さだかた》はこの年四月二十七日に妻かなの喪に遭《あ》った。かなは文化十四年の生《うまれ》で四十九歳になっ
前へ
次へ
全446ページ中296ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング