「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻|比良野氏《ひらのうじ》が「※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]照院妙浄日法大姉」とし、同《おなじく》岡西《おかにし》氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹《あと》に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華《こうげ》を手向《たむ》けて置いて感応寺を出た。
尋《つ》いでわたくしは保さんを訪《と》おうと思っていると、偶《たまたま》女《むすめ》杏奴《あんぬ》が病気になった。日々《にちにち》官衙《かんが》には通《かよ》ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕《か》くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙《ひま》に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父《おじ》甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一
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