院妙実日相信女、己丑《きちゅう》明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌《こうじゅつ》寛政二年四月十三日」とあるのは、允成《ただしげ》の初《はじめ》の妻田中|氏《うじ》、「寿松院妙遠日量信女、文政十二|己丑《きちゅう》六月十四日」とあるのは、抽斎の生母|岩田氏《いわたうじ》縫《ぬい》、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年|甲寅《こういん》三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華《どんげ》水子《すいし》、文化八年|辛未《しんび》閏《じゅん》二月十四日」とあるのも、並《ならび》に皆允成の女《むすめ》である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年|壬戌《じんじゅつ》七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年|甲寅《こういん》三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父|為隣《いりん》で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先《さきだ》って死んだ長男|恒善《つねよし》である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明《てんめい》四|甲辰《こうしん》二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父|本皓《ほんこう》である。「智照院妙道日
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