対して憚《はばかり》があるといって、文字《もんじ》を識《し》る四、五人の故旧が来て、胥議《あいぎ》して斧鉞《ふえつ》を加えた。その文の事を伝えて完《まった》からず、また間《まま》実に惇《もと》るものさえあるのは、この筆削のためである。
 建碑の事が畢《おわ》ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町《かめさわちょう》に移った。これは淀川過書船支配《よどがわかしょぶねしはい》角倉与一《すみのくらよいち》の別邸を買ったのである。角倉の本邸は飯田町《いいだまち》黐木坂下《もちのきざかした》にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに稲荷《いなり》と和合神《わごうじん》との祠《ほこら》があった。稲荷は亀沢稲荷といって、初午《はつうま》の日には参詣人《さんけいにん》が多く、縁日|商人《あきうど》が二十|余《あまり》の浮舗《やたいみせ》を門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今|相生《あいおい》小学校になっている地所である。
 これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、
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