亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。
その六十九
矢島優善をして別に一家《いっか》をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の末《すえ》から、中丸昌庵《なかまるしょうあん》が主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩《せいはい》に推されていた。文政元年|生《うまれ》であるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得|違《ちがえ》から貶黜《へんちつ》を受けた。しかし幸《さいわい》に過《あやまち》を改めたので、一昨年|故《もと》の地位に複《かえ》り、昨年は奥通《おくどおり》をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら新《あらた》にすべき時は今である。それには一家を構えて、責《せめ》を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百《いお》は危《あやぶ》みつつこの議を納《い》れたのである。比良野|貞固《さだかた》は初め昌
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