ち》の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助《けんのすけ》正教《まさのり》の世になってから、昌平橋|内《うち》の上屋敷にいた。今の神田|淡路町《あわじちょう》である。手習に来る児童の数は頗《すこぶ》る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年|生《うまれ》で十二歳になる伊沢鉄三郎《いさわてつさぶろう》がいた。柏軒の子で、後に徳安《とくあん》と称し、維新後に磐《いわお》と更《あらた》めた人である。成斎は手に鞭《むち》を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の尖《さき》で指《ゆびさ》し示した。そして児童を倦《う》ましめざらんがためであろうか、諧謔《かいぎゃく》を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰《おくづめ》医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
 抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑《ほうひ》を築き起して世に傲《おご》るが如き状《じょう》をなすは、主家に
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