らた》めた。中村勇左衛門即ち今弘前|桶屋町《おけやまち》にいる範一《はんいち》さんの妻で、その子の範《すすむ》さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
成善はこの年十月|朔《ついたち》に海保漁村と小島成斎との門に入《い》った。海保の塾は下谷《したや》練塀小路《したやねりべいこうじ》にあった。いわゆる伝経廬《でんけいろ》である。下谷は卑※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、201−2]《ひしつ》の地なるにもかかわらず、庭には梧桐《ごとう》が栽《う》えてあった。これは漁村がその師|大田錦城《おおたきんじょう》の風《ふう》を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、躋寿館《せいじゅかん》の講師となっていた。また陸奥国《むつのくに》八戸《はちのへ》の城主|南部《なんぶ》遠江守《とうとうみのかみ》信順《のぶゆき》と越前国|鯖江《さばえ》の城主|間部《まなべ》下総守|詮勝《あきかつ》とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子|竹逕《ちくけい》が代講をしていたのである。
小島成斎は藩主阿部|正寧《まさやす》の世には、辰《たつ》の口《く
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