い》を安積艮斎《あさかごんさい》に受け、医を躋寿館《せいじゅかん》に学び、父|槐園《かいえん》の後《のち》を承《う》けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三《てつぞう》、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛《せへえ》と改め、また瑞見《ずいけん》といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
 説文会には島田|篁村《こうそん》も時々列席した。篁村は武蔵国|大崎《おおさき》の名主《なぬし》島田|重規《ちょうき》の子である。名は重礼《ちょうれい》、字は敬甫《けいほ》、通称は源六郎《げんろくろう》といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交《こう》にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
 抽斎の好んで読んだ小説は、赤本《あかほん》、菎蒻本《こんにゃくぼん》、黄表紙《きびょうし》の類《るい》であった。想《おも》うにその自ら作った『呂后千夫《りょこうせんふ》』は黄表紙の体《たい》に倣《なら》ったものであっただろう。
 抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の
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