号を襲《つ》いだというを以て、想見することが出来る。父|允成《ただしげ》がしばしば戯場《ぎじょう》に出入《しゅつにゅう》したそうであるから、殆ど遺伝といっても好《よ》かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見《めみえ》以上の身分になったからは、今より後《のち》市中の湯屋に往《ゆ》くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが宜《よろ》しいというのであった。渋江の家には浴室の設《もうけ》があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支《さしつかえ》がなかった。しかし観劇を停《とど》められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して姑《しばら》く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓《ひいき》にしていた。家に伝わった俳名|三升《さんしょう》、白猿《はくえん》の外に、夜雨庵《やうあん》、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町《ふきやちょう》の芝居茶屋|丸屋《まるや》三右衛門《さんえもん》の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に
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