は天下の士人をして悉《ことごと》く岐路に立たしめた。勤王に之《ゆ》かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において鼠《ねずみ》いろの生を偸《ぬす》むことを容《ゆる》さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
この間題は抽斎をして思慮を費《ついや》さしむることを要せなかった。何故《なにゆえ》というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。
その六十
渋江氏の勤王はその源委《げんい》を詳《つまびらか》にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師|柴野栗山《しばのりつざん》に啓発せられたことは疑を容《い》れない。允成が栗山に従学した年月は明《あきらか》でないが、栗山が五十三歳で幕府の召《めし》に応じて江戸に入《い》った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の後《のち》である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその後《ご》久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月|朔《さく》に七十二歳で歿したとして推算したものである。
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新
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