。是《こ》れ空《くう》に体する大乗の教《おしえ》なり。自然と云ふより一層あとなき言《こと》なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌《こうてい》仁義《じんぎ》より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之《いつもってこれをつらぬく》は此教を一にして執中《しっちゅう》に至り初て仏家大乗の一場《いちじょう》に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
抽斎は終《つい》に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中《うち》にも契合点《けいごうてん》を見出だして、彼《か》の安井息軒《やすいそっけん》の『弁妄《べんもう》』などと全く趣を殊《こと》にした書を著《あらわ》したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文について、その心術|身行《しんこう》の由《よ》って来《きた》る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百《いお》が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日《このごろ》保さんがわたくしのために筆に上《のぼ》せたのである。わたくしは今|漫《みだり》に潤削を施すことなしに、これを此
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