猶不及《すぎたるはなおおよばざるがごとし》を身行《しんこう》の要とし、無為不言《ぶいふげん》を心術の掟《おきて》となす。此二書をさへ能《よ》く守ればすむ事なり」というのである。
 抽斎は百尺竿頭《ひゃくせきかんとう》更に一歩を進めてこういっている。「但《ただし》論語の内には取捨すべき所あり。王充《おうじゅう》書《しょ》の問孔篇《もんこうへん》及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文《それせいけんのふでをくだしぶんをつくるや》、用意詳審《いをもちいてくわしくつまびらかにするも》、尚未可謂尽得実《なおいまだことごとくはじつをうというべからず》、況倉卒吐言《いわんやそうそつのとげん》、安能皆是《いずくんぞよくみなぜならんや》」という見識である。
 抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々《そうそう》として上《かみ》にあり。人は両間《りょうかん》に生れて性皆相近し。習《ならい》相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れ
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