外ないと信じたのである。固《もと》よりこれは捷径《しょうけい》ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人《いちにん》の生涯を費《ついや》すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此《ここ》に従事せずにはいられぬのである。
 然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑《いとま》がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
 抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで好《い》いものはない。十三|経《ぎょう》といい、九経といい、六経という。列《なら》べ方はどうでも好いが、秦火《しんか》に焚《や》かれた楽経《がくけい》は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々《ことごと》しく云《い》へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過
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