聖人の大道微意を明むること能《あた》はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業《たいぎょう》に似たれども、其内|主《しゅ》とする所の書を専《もっぱ》ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随《したが》ひて教《おしえ》を受くべき所なり。さて斯《かく》の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
 これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁《よ》って修養して好《い》いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の此《かく》の如き見解は、全く師市野迷庵の教《おしえ》に本づいている。

   その五十七

 迷庵の考証学が奈何《いか》なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子《こうし》は堯舜《ぎょうしゅん》三代の道を述べて、其《その》流義を立て給《たま》へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明《あきらか》に伝はれる所なればなり。されど
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