事はしない。ただ修養の全《まった》からんことを欲するには、考証を闕《か》くことは出来ぬと信じている。何故《なにゆえ》というに、修養には六経《りくけい》を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須《ま》つことがあるというのである。
 抽斎はその『※[#「衞/心」、169−9]語《えいご》』中にこういっている。「凡《およ》そ学問の道は、六経《りくけい》を治め聖人《せいじん》の道を身に行ふを主とする事は勿論《もちろん》なり。扨《さて》其《その》六経を読み明《あきら》めむとするには必ず其|一言《いちげん》一句をも審《つまびらか》に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字《もんじ》の音義を詳《つまびらか》にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先《ま》づ善本を多く求めて、異同を比讐《ひしゅう》し、謬誤《びゅうご》を校正し、其字句を定めて後《のち》に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得《う》。譬《たと》へば高きに登るに、卑《ひく》きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕《さいさい》の末業《まつぎょう》に似たれども、必ずこれをなさざれば、
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