、小島|抱沖《ほうちゅう》、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通《いずみばしどおり》に住していた。名は尚質《しょうしつ》、一|字《じ》は学古《がくこ》である。抱沖はその子|春沂《しゅんき》で、百俵|寄合《よりあい》医師から出て父の職を襲《つ》ぎ、家は初め下谷《したや》二長町《にちょうまち》、後|日本橋《にほんばし》榑正町《くれまさちょう》にあった。名は尚真《しょうしん》である。春沂の後《のち》は春澳《しゅんいく》、名は尚絅《しょうけい》が嗣《つ》いだ。春澳の子は現に北海道|室蘭《むろらん》にいる杲一《こういち》さんである。陸実《くがみのる》が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで誰《たれ》もこれを匡《ただ》さずにいる。またこの学統について、長井金風《ながいきんぷう》さんは篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の前に井上蘭台《いのうえらんだい》と井上|金峨《きんが》とを加えなくてはならぬといっている。要
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