には「安政五年|戊午《ぼご》十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日《ねんげつじつ》は家定が薨《こう》じてから四月《しげつ》の後《のち》である。その枳園自撰の文なるを思えば、頗《すこぶ》る怪《あやし》むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
 この年の虎列拉《コレラ》は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人《ぶんじん》でこれに死したものには、岩瀬京山《いわせけいざん》、安藤広重《あんどうひろしげ》、抱一《ほういつ》門の鈴木必庵《すずきひつあん》等がある。市河米庵《いちかわべいあん》も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚《いんせき》とは抽斎、宗右衛門の二人《ににん》を喪《うしな》って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
 抽斎の著《あらわ》す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜《りゅうしんふ》』とがあって、相踵《あいつ》いで支那人の手に由《よ》って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園
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