て謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
五月十七日には七女|幸《さき》が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
この年には七月から九月に至るまで虎列拉《コレラ》が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々|御勝不被遊《おんすぐれあそばされず》」ということであったが、八日には忽《たちま》ち薨去《こうきょ》の公報が発せられ、家斉《いえなり》の孫紀伊宰相|慶福《よしとみ》が十三歳で嗣立《しりつ》した。家定の病は虎列拉であったそうである。
この頃抽斎は五百《いお》にこういう話をした。「己《おれ》は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様《くぼうさま》の喪が済み次第|仰付《おおせつ》けられるだろうということだ。しかしそれをお請《うけ》をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主家《しゅうけ》を棄《す》てて栄達を謀《はか》る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに極《き》めた。父は五十九歳で隠居して七
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