信順に扈随《こずい》して弘前に往《い》って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草《タバコ》は終生|喫《の》まなかった。遊山《ゆさん》などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入《でいり》したが、それも同好の人々と一しょに平土間《ひらどま》を買って行くことに極《き》めていた。この連中を周茂叔連《しゅうもしゅくれん》と称《とな》えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購《あがな》うと客《かく》を養うとの二つの外に出《い》でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢《しゅたく》を存じている書籍が少《すくな》くなかっただろうが、現に『経籍訪古志《けいせきほうこし》』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲《し》を惜《おし》まなかったことは想い遣《や》られる。
抽斎の家には食客《しょっかく》が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志《こころざし》があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
抽斎は詩
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