にいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時|裁《わずか》に十七歳であった。
小野氏ではこの年|令図《れいと》が致仕して、子|富穀《ふこく》が家督した。令図は小字《おさなな》を慶次郎《けいじろう》という。抽斎の祖父|本皓《ほんこう》の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国|川越《かわごえ》の人某の女《むすめ》である。令図は出《い》でて同藩の医官二百石|小野道秀《おのどうしゅう》の末期《まつご》養子となり、有尚《ゆうしょう》と称し、後《のち》また道瑛《どうえい》と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日|生《うまれ》で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男《だん》を富穀《ふこく》といい、女《じょ》を秀《ひで》といった。
富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生《うまれ》である。十一歳にして、森|枳園《きえん》と共に抽斎の弟子《ていし》となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩|定府《じょうふ》中の富人《ふうじん》であった。妹秀は長谷川町《はせがわちょう》の外科医|鴨池道碩《かもいけどうせき》に嫁した。
多紀氏
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