、名を徳瑛《とくえい》、字《あざな》を魯直《ろちょく》といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女《むすめ》は名を初《はつ》といった。
 この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生《へいぜい》の学術上|研鑽《けんさん》の外に最も多く思《おもい》を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手《くにがって》の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克《か》たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位《くらい》にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢《あえ》てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾《うら》むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起《た》つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟《きし》を明《あきらか》にする時期の早きを致すことが出来なかった。

   その五十一

 安政四年には
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