いるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護《ほうご》を受けているのを、せめてもの僥倖《ぎょうこう》としなくてはならない。
 わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書《けいしょ》や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗《すこぶ》るわたくしと相似ている。ただその相殊《あいこと》なる所は、古今|時《とき》を異《こと》にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別《しゃべつ》がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁《ざっぱく》なるヂレッタンチスムの境界《きょうがい》を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視《み》て忸怩《じくじ》たらざることを得ない。
 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比《たぐい》ではなかった。迥《はるか》にわたくしに優《まさ》った済勝《せいしょう》の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬《いけい》すべき人である。
 然《しか》るに
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