を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百《いお》の覚書《おぼえがき》に拠《よ》るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子|優善《やすよし》が養子に往った家の名である。これに由《よ》って観《み》れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費《ついえ》である。吉原に火災があると、貞固は妓楼《ぎろう》佐野槌《さのづち》へ、百両に熨斗《のし》を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方|黛《まゆずみ》のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉《ね》えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌《ふんどし》一本買う銭もない。」

   その四十一

 均《ひと》しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固《さだかた》に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏《ひらいうじ》、名は|俊章《
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