られている。津軽家の上屋敷が神田|小川町《おがわまち》から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家《しょけ》の留守居に会う。従者は自ら豢《やしな》っている若党|草履取《ぞうりとり》の外に、主家《しゅうけ》から附けられるのである。
 留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ往《ゆ》く。八百善《やおぜん》、平清《ひらせい》、川長《かわちょう》、青柳《あおやぎ》等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣《はんさ》な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。譬《たと》えば筵席《えんせき》の觴政《しょうせい》の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣《とりやり》をもしなくてはならなかった。就中《なかんずく》厳しく守られていたのは新参《しんざん》故参《こさん》の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶《あいさつ》しなくてはならなかった。
 津軽家では留守居の年俸
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