そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通《すつう》届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄《げんろく》の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府《じょうふ》であったので、弘前には深く交《まじわ》った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今|東京《とうけい》にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽《いいだたつみ》という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚《とのさきかく》という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精《くわ》しい佐藤弥六《さとうやろく》さんという老人で、当時|大正《たいしょう》四年に七十四歳になるといってあった。
わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突《とうとつ》ではあったが、飯田さんの西江戸川町《にしえどがわちょう》の邸《やしき》へ往《い》った。飯田さんは素《も》と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰《だれ》の紹介をも求
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