に四と註《ちゅう》している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々《しょしょ》考証を記《しる》すに当って抽斎|云《いわく》としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江|氏《うじ》蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確《たしか》めようと思い立った。
わたくしは友人、就中《なかんずく》東北地方から出た友人に逢《あ》うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣《や》って問い合せた。
或る日|長井金風《ながいきんぷう》さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
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