郎作は少《わか》い時、山本北山《やまもとほくざん》の奚疑塾《けいぎじゅく》にいた。大窪天民《おおくぼてんみん》は同窓であったので後《のち》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで親しく交った。上戸《じょうご》の天民は小さい徳利を蔵《かく》して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽《おおだる》を塾に持って来たことがあるそうである。下戸《げこ》の五郎作は定めて傍《はた》から見て笑っていたことであろう。
五郎作はまた博渉家《はくしょうか》の山崎美成《やまざきよししげ》や、画家の喜多可庵《きたかあん》と往来していた。中にも抽斎より僅《わずか》に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑《うたがい》を質《ただ》すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許《もと》へ持って往って見せた。
文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷《したや》長者町《ちょうじゃまち》で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋《やおや》お七《しち》のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代|前《まえ》に真志屋《ましや》へ嫁入した島《しま》という女の遺物である。島の里方《さとかた》を河内屋半兵衛《かわちやはんべえ》といって、真志屋と同じく水戸家の賄方《まかないかた》を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋|市左衛門《いちざえもん》はこの河内屋の地借《じかり》であった。島が屋敷奉公に出る時、穉《おさな》なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬《ひぢりめん》のふくさに、紅絹裏《もみうら》を附けて縫ってくれた。間もなく本郷|森川宿《もりかわじゅく》のお七の家は天和《てんな》二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人《じょうにん》と相識《そうしき》になって、翌年の春家に帰った後《のち》、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念《かたみ》のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人《ゆうてんしょうにん》から受けた名号《みょうごう》をそれに裹《つつ》んでいた。五郎作は新《あらた》にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享《う》くること六十三であった。
その二十四
石塚重兵衛の祖先は相模国《さがみのくに》鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷《したや》豊住町《とよずみちょう》に住んだ。世《よよ》粉商《こなしょう》をしているので、芥子屋《からしや》と人に呼ばれた。真《まこと》の屋号は鎌倉屋である。
重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の臼《うす》を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という意《こころ》で、自ら豊芥子《ほうかいし》と署した。そしてこれを以て世に行われた。その豊亭《ほうてい》と号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂《しゅうこどう》という号がある。
重兵衛に女《むすめ》が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩《ほうとう》をして離別せられた。しかし後に浅草《あさくさ》諏訪町《すわちょう》の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
重兵衛は文久元年に京都へ往《ゆ》こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童《わらべ》であったはずである。
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電《おおつきにょでん》さんが浅草|北清島町《きたきよじまちょう》報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣《もう》でて、忌日《きにち》に墓に来るものは河竹新七《かわたけしんしち》一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥《もくあみ》の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎《あさかごんさい》、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》、二歳であった伊沢|榛軒《しんけん》がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
抽斎が始《はじめ》て市野迷庵の門に入《い》ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子《
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