る十一年前である。これが初代劇神仙である。
 五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の後《のち》を襲《つ》いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父|允成《ただしげ》と親しく交《まじわ》っていたが、允成は五郎作に先《さきだ》つこと十一年にして歿した。
 五郎作は独り劇を看《み》ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世|彦三郎《ひこさぶろう》を贔屓《ひいき》にして、所作事《しょさごと》を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手《じょうず》であったことは、同情のない喜多村※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《きたむらいんてい》が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
 五郎作は奇行はあったが、生得《しょうとく》酒を嗜《たし》まず、常に養性《ようじょう》に意を用いていた。文政十年七月の末《すえ》に、姪《おい》の家の板の間《ま》から墜《お》ちて怪我《けが》をして、当時流行した接骨家|元大坂町《もとおおさかちょう》の名倉弥次兵衛《なぐらやじべえ》に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸《げこ》で、戒行《かいぎょう》が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を廻《まわ》さずに済んだ。この三つが一つ闕《か》けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日|余《あまり》掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪《ていはつ》した後《のち》だからいったものと見える。怪我は両臂《りょうひじ》を傷めたので骨には障《さわ》らなかったが痛《いたみ》が久しく息《や》まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]《しびれ》だけは跡に貽《のこ》った。五十九歳の時の事である。
 五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆《ぎりょう》の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売《うり》に出たと聞いて、大晦日《おおみそか》に築地《つきじ》の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙《けいし》十二枚に細字《さいじ》で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って明《あきら》かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半《なかば》は材料をこの簡牘《かんどく》に取ったものである。宛名《あてな》の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつどう》は桑原氏《くわばらうじ》、名は正瑞《せいずい》、字《あざな》は公圭《こうけい》、通称を古作《こさく》といった。駿河国島田駅の素封家で、詩|及《および》書を善くした。玄孫|喜代平《きよへい》さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺《でんしんじ》に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。

   その二十三

 わたくしの獲《え》た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂《ひじ》を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研《と》ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを蜀山《しょくさん》らの作に比するに、遜色《そんしょく》あるを見ない。※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−15−73]庭《いんてい》は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、此《かく》の如きは決して公論ではない。※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−15−73]庭は素《もと》漫罵《まんば》の癖《へき》がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬《きたせいろ》を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の悪《あく》解釈を挙げて、口を極めて嘲罵《ちょうば》しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子《かくべえじし》を観《み》ることを好んで、奈何《いか》なる用事をも擱《さしお》いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
 五
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