けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地|反別帳《たんべつちょう》という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の言《こと》に従って、人に託して府庁に質《ただ》してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞《こ》うた人は頗《すこぶ》る多い。初《はじめ》にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵《いちのめいあん》が何歳、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》が何歳、伊沢蘭軒《いさわらんけん》が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度《そんたく》して見たかったのである。
諸家の中《うち》でも、戸川残花《とがわざんか》さんはわたくしのために武田信賢《たけだしんけん》さんに問うたり、南葵《なんき》文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三《くれしゅうぞう》さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦《おおつきふみひこ》さんは如電《にょでん》さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好《しこう》あるがために、踏査の労をさえ厭《いと》わなかったのであろう。ただ憾《うら》むらくもわたくしは徒《いたずら》にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭《かげ》である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪《と》うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年《せきねん》日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣《もう》でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜《おし》むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍《かたわら》と記《しる》したのである。是《ここ》においてかつて親しく嶺松寺|中《ちゅう》の碑碣《ひけつ》を睹《み》た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅《いんめつ》の期に薄《せま》っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。
その十九
弘福寺《こうふくじ》の現住墨汁師は大正五年に入《い》ってからも、捜索の手を停《とど》めずにいた。そしてとうとう下目黒《しもめぐろ》村|海福寺《かいふくじ》所蔵の池田氏|過去帖《かこちょう》というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏《いくたうじ》中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文《ばつぶん》を読むに、この書は二世|瑞仙晋《ずいせんしん》の子|直温《ちょくおん》、字《あざな》は子徳《しとく》が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年|忌辰《きしん》に丁《あた》って、新《あらた》に歴代の位牌《いはい》を作り、併《あわ》せてこれを纂記《さんき》して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明《ぶんみょう》に嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻|佐井氏《さいうじ》、二代瑞仙、その二男|洪之助《こうのすけ》、二代瑞仙の兄|信一《しんいち》の五人に過ぎない。しかし既に京水《けいすい》の墓が同じ寺にあったとすると、徒士町《かちまち》の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台《するがだい》の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
この書の記《き》する所は、わたくしのために創聞《そうぶん》に属するものが頗《すこぶ》る多い。就中《なかんずく》異《い》とすべきは、独美に玄俊《げんしゅん》という弟があって、それが宇野氏を娶《めと》って、二人の間に出来た子が京水だという一事《いちじ》である。この書に拠《よ》れば、独美は一旦《いったん》姪《てつ》京水を養って子として置きながら、それに家を嗣《つ》がせず、更に門人|村岡晋《むらおかしん》を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以《
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