あんしつぶんこう》』に出ている。通称は三右衛門《さんえもん》である。六|世《せい》の祖|重光《ちょうこう》が伊勢国|白子《しろこ》から江戸に出て、神田佐久間町に質店《しちみせ》を開き、屋号を三河屋《みかわや》といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父|光紀《こうき》が、香月氏《かづきうじ》を娶《めと》って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
 迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本《こはんぼん》、古抄本を捜《さぐ》り討《もと》めて、そのテクストを閲《けみ》し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸《みと》の吉田篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《よしだこうとん》に発し、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎がその後《のち》を承《う》けて発展させた。篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志《ほうこし》』となったのである。この人が晩年に『老子《ろうし》』を好んだので、抽斎も同嗜《どうし》の人となった。
 狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、名は望之《ぼうし》、字《あざな》は卿雲《けいうん》、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はその号である。通称を三右衛門《さんえもん》という。家は湯島《ゆしま》にあった。今の一丁目である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家は津軽の用達《ようたし》で、津軽屋と称し、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は津軽家の禄千石を食《は》み、目見諸士《めみえしょし》の末席《ばっせき》に列せられていた。先祖は参河国《みかわのくに》苅屋《かりや》の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は狩谷|保古《ほうこ》の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏《たかはしこうびん》、母は佐藤氏である。安永四年の生《うまれ》で、抽斎の母|縫《ぬい》と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十《とお》少《わか》かったのだろう。抽斎の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪《うしな》って※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に適《ゆ》いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も古書を集めたが、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は古銭をも集めた。漢代《かんだい》の五物《ごぶつ》を蔵して六漢道人《ろっかんどうじん》と号したので、人が一物《いちぶつ》足らぬではないかと詰《なじ》った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖《こせんへき》があったそうである。
 迷庵と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは、年歯《ねんし》を以《もっ》て論ずれば、彼が兄、此《これ》が弟であるが、考証学の学統から見ると、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が先で、迷庵が後《のち》である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
 六右衛門の称は頗《すこぶ》る妙である。然《しか》るに世の人は更に一人《ひとり》の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は喜多氏《きたうじ》、名は慎言《しんげん》、字は有和《ゆうわ》、梅園《ばいえん》また静廬《せいろ》と号し、居《お》る所を四当書屋《しとうしょおく》と名づけた。その氏の喜多を修して北《ほく》慎言とも署した。新橋《しんばし》金春《こんぱる》屋敷に住んだ屋根|葺《ふき》で、屋根屋三右衛門が通称である。本《もと》は芝《しば》の料理店|鈴木《すずき》の倅《せがれ》定次郎《さだじろう》で、屋根屋へは養子に来た。少《わか》い時狂歌を作って網破損針金《あみのはそんはりがね》といっていたのが、後|博渉《はくしょう》を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清《おやまだともきよ》の『擁書楼《ようしょろう》日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこ
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