によるに、允成《ただしげ》は天明六年八月十九日に豊島町|通《どおり》横町《よこちょう》鎌倉《かまくら》横町|家主《いえぬし》伊右衛門店《いえもんたな》を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北《きた》の方《かた》河岸《かし》に寄った所にある。允成がこの店《たな》を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫《しばら》く多紀桂山《たきけいざん》の許《もと》に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月|晦《みそか》に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西|両側《りょうそく》が名を異にしているに過ぎない。想《おも》うに渋江|氏《うじ》は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側《むかいがわ》の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
 抽斎は小字《おさなな》を恒吉《つねきち》といった。故越中守|信寧《のぶやす》の夫人|真寿院《しんじゅいん》がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆《ほとん》ど日ごとに召し寄せて、傍《そば》で嬉戯《きぎ》するのを見て楽《たのし》んだそうである。美丈夫允成に肖《に》た可憐児《かれんじ》であったものと想われる。
 志摩《しま》の稲垣氏の家世《かせい》は今|詳《つまびらか》にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌《そうぼう》の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後《のち》允成になった神童専之助を出《いだ》す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此《これ》は智能《ちのう》の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹《たず》ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好《よ》かろう。
 さてその抽斎が生れて来た境界《きょうがい》はどうであるか。允成の庭《にわ》の訓《おしえ》が信頼するに足るものであったことは、言を須《ま》たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象《せいしょう》を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿《れっしゅく》を数えて見たい。しかし観察が徒《いたずら》に汎《ひろ》きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己《たいこ》である。
 抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵《いちのめいあん》がある。次は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》である。医学の師には伊沢蘭軒《いさわらんけん》がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水《いけだけいすい》である。それから抽斎が交《まじわ》った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎《あさかごんさい》、小島成斎《こじませいさい》、岡本况斎《おかもときょうさい》、海保漁村《かいほぎょそん》、医家には多紀《たき》の本末《ほんばつ》両家、就中《なかんずく》※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、伊沢蘭軒の長子|榛軒《しんけん》がいる。それから芸術家|及《および》芸術批評家に谷文晁《たにぶんちょう》、長島五郎作《ながしまごろさく》、石塚重兵衛《いしづかじゅうべえ》がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出《い》づるを待ち受けていたようなものである。

   その十三

 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中《うち》には、現に普《あまね》く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿《さしはさ》もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与《あずか》って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
 市野迷庵、名を光彦《こうげん》、字を俊卿《しゅんけい》また子邦《しほう》といい、初め※[#「竹かんむり/員」、第4水準2−83−63]窓《うんそう》、後迷庵と号した。その他|酔堂《すいどう》、不忍池漁《ふにんちぎょ》等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説《すいどうのせつ》を作ったのが、『容安室文稿《よう
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