た邸をあずかっていて、住宅は本所|割下水《わりげすい》にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国|薬研堀《やげんぼり》に住んでいた。安の女《むすめ》二人《ふたり》のうち、敬《けい》は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、銓《せん》は蔵前須賀町の呉服屋|桝屋《ますや》儀兵衛の許《もと》にいた。また専六と成善との兄|優善《やすよし》は、ほど遠からぬ浦和にいた。
成善の旧師には多紀|安琢《あんたく》が矢の倉におり、海保|竹逕《ちくけい》がお玉が池にいた。維新の初《はじめ》に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、練塀小路《ねりべいこうじ》の湿地にあった、床《ゆか》の低い、畳の腐った家から移り住んだ。独《ひとり》家宅が改まったのみではない。常に弊衣を著《き》ていた竹逕が、その頃から絹布《けんぷ》を被《き》るようになった。しかし幾《いくばく》もなく、当時の有力者山内|豊信《とよしげ》等の斥《しりぞ》くる所となって官を罷《や》めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に入《い》ったが、竹逕は前年に会陰《えいん》に膿瘍《のうよう》を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『易《えき》』や『毛詩《もうし》』を講ずるのを聴《き》いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を蒙《こうむ》っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所|相生町《あいおいちょう》の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言《いげん》して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易《か》うるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八《せきしんぱち》の経営する所である。振八、初《はじめ》の名を仁寿《じんじゅ》という。下総国高岡の城主|井上《いのうえ》筑後守|正滝《まさたき》の家来鈴木|伯寿《はくじゅ》の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の末年《ばつねん》に尺氏を冒した。田辺太一《たなべたいち》に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎《にしきちじゅうろう》等を師とし、次で英米人に親炙《しんしゃ》し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。
その九十二
成善は四月に海保の伝経廬《でんけいろ》に入《い》り、五月に尺《せき》の共立学舎に入ったが、六月から更に大学|南校《なんこう》にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの許《もと》を訪うて教を受けた。フルベックは本《もと》和蘭《オランダ》人で亜米利加《アメリカ》合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人《いちにん》である。
学資は弘前藩から送って来る五人扶持の中《うち》三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場《そうば》で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より新《あらた》に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本《しゅたくぼん》を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集《しゅうしゅう》した古刊本等の大部分が海若《かいじゃく》の有《ゆう》に帰《き》した。
八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社|調掛《しらべがかり》を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に入《い》ることを届けて置いたので、同時に「欠席|聞届《ききとどけ》の委頼《いらい》」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の詔《みことのり》を以て廃藩置県の制が布《し》かれたので、弘前県が成立していたのである。
矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津《からつ》藩士|大沢正《おおさわせい》の女《むすめ》蝶《ちょう》を娶《めと》った。嘉永二年|生《うまれ》で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤《かっとう》を経た後《のち》に離別せられていた。
優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
成善と倶《とも》に東京に来た松本|甲子蔵《きねぞう》は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後《のち》兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
当時県吏の権勢は盛《さかん》なものであった。成善が東京に入《い》った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕龍《かご》一挺を宰領させて成善を県の界《さかい》に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛
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