かると、渡船場《とせんば》の役人が土下座をした。
 優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋《みなとや》の抱《かかえ》芸者を始《はじめ》とし、山谷堀で顔を識《し》った芸者を漏《もれ》なく招いた。そして酒|闌《たけなわ》なる時「己《おれ》はお前方《まえがた》の供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。大丈夫《だいじょうふ》志を得たという概があったそうである。
 県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事|間島冬道《まじまふゆみち》の催した懇親会では、塩田|良三《りょうさん》が野呂松《のろま》狂言を演じ、優善が莫大小《メリヤス》の襦袢《じゅばん》袴下《はかました》を著《き》て夜這《よばい》の真似《まね》をしたことがある。間島は通称万次郎、尾張《おわり》の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮《おおみや》県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
 この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の戸長《こちょう》は野菜|一車《ひとくるま》を優善に献じたいといって持って来た。優善は「己《おれ》は賄賂《わいろ》は取らぬぞ」といって却《しりぞ》けた。
 戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの面目《めんぼく》が立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
 戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
 優善は廉《やす》い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
 県令は野村盛秀《のむらもりひで》であったが、野菜を貰《もら》うと同時にこの顛末《てんまつ》を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって褒《ほ》めたそうである。野村は初め宗七《そうしち》と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田《ひた》県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人《おんうたどころよりうど》を以て終った。また野村は後《のち》明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、長門《ながと》の士参事|白根多助《しらねたすけ》が一時県務を摂行《せっこう》した。

   その九十三

 山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を喪《うしな》って、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽|承昭《つぐてる》の命を拝した。「親源吾給禄二十俵|無相違被遣《そういなくつかわさる》」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは成善《しげよし》が内意を承《う》けて願書を呈したためである。
 専六は成善に紹介せられて、先ず海保の伝経廬《でんけいろ》に入《い》り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に梅浦精一《うめうらせいいち》に従学した。
 この年六月七日に成善は名を保《たもつ》と改めた。これは母を懐《おも》うが故に改めたので、母は五百《いお》の字面《じめん》の雅《が》ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島|優善《やすよし》の名を優《ゆたか》と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩《おさむ》と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。
 この年十二月三日に保と脩とが同時に斬髪《ざんぱつ》した。優は何時《いつ》斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を距《さ》ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の紐《ひも》を以て髻《もとどり》を結《ゆ》うのが、当時の官吏の頭飾《とうしょく》で、優が何時までその髻を愛惜《あいじゃく》したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことを須《もち》いぬというかも知れない。しかし明治の初《はじめ》に男子が髪を斬ったのは、独逸《ドイツ》十八世紀のツォップフが前に断たれ、清朝《しんちょう》の辮髪《べんぱつ》が後《のち》に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに苦《くるし》むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を記《き》していない。保さんの日記の一条を此《ここ》に採録する所以《ゆえん》である。
 この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所|割下水《わりげすい》の家に同居した。
 海保|竹逕《ちくけい》の妻、漁村の女《むすめ》がこの年十月二十五日に歿した。
 抽斎歿後の第十四年は明治五年である。一月《いちげつ》
前へ 次へ
全112ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング