《おとな》しくなって、殆どはにかむように見えた。
この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を還《かえ》した。それは九月の九日に将軍|家茂《いえもち》が明年二月を以て上洛《じょうらく》するという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野|貞固《さだかた》に諮《はか》って、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ虫干《むしぼし》をすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。
書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森|枳園《きえん》が来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は乎古止点《おことてん》を施した古写本で、松永久秀《まつながひさひで》の印記があった。『史記』は朝鮮|板《ばん》であった。後《のち》明治二十三年に保さんは島田篁村《しまだこうそん》を訪《と》うて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを細川十洲《ほそかわじっしゅう》さんに借りて閲《けみ》していたのである。
津軽家ではこの年十月十四日に、信順《のぶゆき》が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善《しげよし》は枕辺《まくらべ》に侍していた。
この年十二月二十一日の夜《よ》、塙次郎《はなわじろう》が三番町《さんばんちょう》で刺客《せきかく》の刃《やいば》に命を隕《おと》した。抽斎は常にこの人と岡本|况斎《きょうさい》とに、国典の事を詢《と》うことにしていたそうである。次郎は温古堂《おんこどう》と号した。保己一《ほきいち》の男《だん》、四谷《よつや》寺町《てらまち》に住む忠雄《ただお》さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守|信睦《のぶゆき》のために廃立の先例を取り調べたという事が伝えられたのが、この横禍《おうか》の因をなしたのである。遺骸の傍《かたわら》に、大逆《たいぎゃく》のために天罰を加うという捨札《すてふだ》があった。次郎は文化十一年|生《うまれ》で、殺された時が四十九歳、抽斎より少《わか》きこと九年であった。
この年六月中旬から八月下旬まで麻疹《ましん》が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳《ぎょりゅう》の葉と貝多羅葉《ばいたらよう》とを貰《もら》いに来る人が踵《くびす》を接した。二樹《にじゅ》の葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、諸人《しょにん》の望に負《そむ》かざらんことを努めた。
その七十七
抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善《しげよし》は七歳で、始《はじめ》て矢の倉の多紀安琢《たきあんたく》の許《もと》に通って、『素問《そもん》』の講義を聞いた。
伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川|家茂《いえもち》に随《したが》って京都に上り、病を得て客死《かくし》したのである。嗣子鉄三郎の徳安《とくあん》がお玉が池の伊沢氏の主人となった。
この年七月二十日に山崎美成《やまざきよししげ》が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし二家《にか》書庫の蔵する所は、互《たがい》に出《い》だし借すことを吝《おし》まなかったらしい。頃日《このごろ》珍書刊行会が『後昔物語《のちはむかしものがたり》』を刊したのを見るに、抽斎の奥書《おくがき》がある。「右|喜三二《きさじ》随筆後昔物語一巻。借好間堂蔵本《こうもんどうぞうほんをかり》。友人|平伯民為予謄写《へいはくみんよがためにとうしゃす》。庚子孟冬《こうしもうとう》一校。抽斎。」庚子《こうし》は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民《へいはくみん》は平井東堂だそうである。
美成、字は久卿《きゅうけい》、北峰《ほくほう》、好問堂《こうもんどう》等の号がある。通称は新兵衛《しんべえ》、後《のち》久作と改めた。下谷《したや》二長町《にちょうまち》に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町《いいだまち》の鍋島《なべしま》というものの邸内にいたそうである。黐木坂下《もちのきざかした》に鍋島|穎之助《えいのすけ》という五千石の寄合《よりあい》が住んでいたから、定めてその邸であろう。
美成の歿した時の齢《よわい》を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々《まちまち》になっていて、確《たしか》には定めがたい。
抽斎歿後の第六年は元治《げんじ》元年である。森枳園が躋寿館《せいじゅかん》の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫《すいざん》が十一歳で夭札《ようさつ》した。
比良野|貞固《さだかた》はこの年四月二十七日に妻かなの喪に遭《あ》った。かなは文化十四年の生《うまれ》で四十九歳になっ
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