ていた。内に倹素を忍んで、外《ほか》に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って始《はじめ》て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻《しきり》に再び娶《めと》らんことを勧めたが、貞固は「五十を踰《こ》えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
第八年は慶応二年である。海保漁村が九年|前《ぜん》に病に罹《かか》り、この年八月その再発に逢《あ》い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子|竹逕《ちくけい》の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故《なにゆえ》というに、晩年の漁村が弟子《ていし》のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉《ことごと》くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄《しわが》れているのに、竹逕は音吐《おんと》晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻《こうふん》態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻《ただ》に伝経廬《でんけいろ》におけるのみではなかった。竹逕は弊衣《へいい》を著《き》て塾を出《い》で、漁村に代って躋寿館に往《ゆ》き、間部家《まなべけ》に往き、南部家に往いた。勢《いきおい》此《かく》の如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路《ねりべいこうじ》の伝経廬は旧に依《よ》って繁栄した。
多年渋江氏に寄食していた山内豊覚《やまのうちほうかく》の妾《しょう》牧《まき》は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。
その七十八
抽斎の姉|須磨《すま》が飯田良清《いいだよしきよ》に嫁して生んだ女《むすめ》二人《ふたり》の中で、長女|延《のぶ》は小舟町《こぶねちょう》の新井屋半七《あらいやはんしち》が妻となって死に、次女|路《みち》が残っていた。路は痘瘡《とうそう》のために貌《かたち》を傷《やぶ》られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗《すこぶ》る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男|直之助《なおのすけ》が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年|前《ぜん》の安政三年から、「武鑑」の徒目附《かちめつけ》の部に載せられている。住所は初め湯島《ゆしま》天沢寺前《てんたくじまえ》としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前《りんしょういんまえ》の猿飴《さるあめ》の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、良政《よしまさ》と称し、後また東京に入《い》って、下谷《したや》車坂町《くるまざかちょう》で終ったそうである。
比良野|貞固《さだかた》は妻かなが歿した後《のち》、稲葉氏から来た養子|房之助《ふさのすけ》と二人で、鰥暮《やもめぐら》しをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、媒人《なこうど》が表坊主《おもてぼうず》大須《おおす》というものの女《むすめ》照《てる》を娶《めと》れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は玄喜《げんき》、子は玄悦《げんえつ》で、麹町《こうじまち》三軒家《さんげんや》の同じ家に住んでいた。照は玄喜の女《むすめ》で、玄悦の妹ではあるまいか。
貞固は津軽家の留守居役所で使っている下役《したやく》杉浦喜左衛門《すぎうらきざえもん》を遣《や》って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その言語《げんぎょ》その挙止さえいかにもしとやかだといった。
結納《ゆいのう》は取換《とりかわ》された。婚礼の当日に、五百《いお》は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の下《もと》に対坐していると、新婦の轎《かご》は門内に舁《か》き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の丈《たけ》極《きわめ》て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が尖《とが》って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑《にがわら》をして、「お姉《あね》えさん、あれが花よめ御《ご》ですぜ」といった。
新婦が来てから杯《さかずき》をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを怪《あやし》んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》いつついった。「実に分疏
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