磨《だるま》」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは陣幕久五郎《じんまくひさごろう》が小柳平助《こやなぎへいすけ》に負けた話を聞いた。
やすは柏軒の庶出《しょしゅつ》の女《むすめ》である。柏軒の正妻|狩谷《かりや》氏|俊《たか》の生んだ子は、幼くて死した長男|棠助《とうすけ》、十八、九歳になって麻疹《ましん》で亡くなった長女|洲《しゅう》、狩谷|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》の養孫、懐之《かいし》の養子|三右衛門《さんえもん》に嫁した次女|国《くに》の三人だけで、その他の子は皆|妾《しょう》春の腹《はら》である。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女|北《きた》、次男|磐《いわお》、四女やす、五女こと、三男|信平《しんぺい》、四男|孫助《まごすけ》である。おやすさんは人と成って後|田舎《いなか》に嫁したが、今は麻布《あざぶ》鳥居坂町《とりいざかちょう》の信平さんの許《もと》にいるそうである。
柴田常庵は幕府医官の一人《いちにん》であったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維新後にこの人は狂言作者になって竹柴寿作《たけしばじゅさく》と称し、五世|坂東彦三郎《ばんどうひこさぶろう》と親しかったということである。なお尋ねて見たいものである。
陣幕久五郎の負《まけ》は当時人の意料《いりょう》の外《ほか》に出た出来事である。抽斎は角觝《かくてい》を好まなかった。然るに保さんは穉《おさな》い時からこれを看《み》ることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日も闕《か》かさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であった。子《ね》の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と耳語《じご》した。
「虚言《うそ》を衝《つ》け」と、保さんは叱《しっ》した。取組は前から知っていて、小柳《やなぎ》が陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の言《こと》は事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
陣幕の事を言ったから、因《ちなみ》に小錦《こにしき》の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は魚屋与助《うおやよすけ》の女《むすめ》で、菊、京の二人《ふたり》の妹があった。この京が岩木川《いわきがわ》の種を宿して生んだのが小錦|八十吉《やそきち》である。
保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の画図《がと》が、明《あきらか》に穉《おさな》い成善の目前に展開せられたのである。
その七十六
小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場《きょうじょう》にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手に鞭《むち》を執って坐し、筆法を正《ただ》すに鞭の尖《さき》を以て指《ゆびさ》し示し、その間には諧謔《かいぎゃく》を交えた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
成斎が鉄砲さんを揶揄《からか》えば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々|戯言《けげん》を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲|奴《め》」と叫びつつ、鞭を揮《ふる》って打とうとする。鉄砲は笑って逃《にげ》る。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいじゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事は殆《ほとん》ど毎日あった。
然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之《たとえ》ば筆法を正すにも「徳安《とくあん》さん、その点はこうお打《うち》なさいまし」という。鉄三郎はよほど前に小字《おさなな》を棄《す》てて徳安と称していたのである。この新《あらた》な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽《たちま》ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人
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